走る禅

twitterの延長線上。

「走ること」の価値観とその変遷

私の長距離歴は長く、幼稚園の年長の時に市民マラソンの1.5kmの部を走ったことがきっかけです。その後は小学生ではマラソン大会で常勝していました。中学生の頃は、サッカー部に所属しながら運動会やマラソン大会では陸上部と張り合っていました。そんな時代があったから井の中の蛙でありながら走ることに関しては自信を持っていました。高校からは陸上部に入り、走っていないときもずっと陸上のために生きているような、恋人のような感覚で現在までの9年ほど、走ることに向き合ってきました。

 

と、このように私の人生の傍にはずっと走ることがあり、そこから様々なこと(没頭することや環境の大切さ、愛について笑、、など)を学んできました。

 

成長とともに知識が増え、価値観の変遷を楽しみながら、ときに愛し、ときに対立しながらもこれまでずっと継続してきました。

 

なぜこんなにも魅了されてしまったのか?まだ答えは見つからないですし、死ぬまで見つからないと思います。それは走ることはあまりにも考慮すべきパラメタが多く、一意な価値観を持ち得ないからです。なので、苦肉の策としてある側面を切って考えるという戦略を取らざるを得ないのが人間の脳、ひいては論理と呼ばれるものの限界です。

大きな要因をあげるならば、きついのにまた走りたいと思わせる「何か」の存在と、走っている途中のランナーズハイと呼ばれる、走る行為そのものが生み出す脳へのポジティブな反応の2つでしょうか。

 

ランナーならば感覚的に理解できるこれらを探求することこそが私にとっての走る意義であり魅力です。つまり、メタ的な視点で「走りとは?」を論じるための実験を自分で行なっている、その実験自体を楽しんでいる感覚でしょうか。

価値観の変遷とは仮説を検証し、最もらしいと腑に落ちたときに生じるものとします。(科学とは違い再現性は無視)その意味で、私の持つ走ることの意味(一見無駄にエネルギーを消費するだけの行為を快楽と感じる遺伝子が今に至るまで残されていることは何か理由があるはず)を検討して行きたいのです。学問でいうと、生物学や、宇宙論形而上学に至るまで、走ることを媒介として思考をすることに至上の喜びを感じるのが私の現在のメタ的な価値観である。

 

赤で書いた理屈を説明しうる世界観を機会があればまた書きたいと思う。その価値観が腑に落ちたとき、私の厭世観が一つ確立されたと思ってしまった。それほどまでに今の私に影響を与えているものです。ではまた、、